17 Rolling Stones 

2016年9月 Part10 藤田善宏
2016年8月 Part9 スズキ拓朗
2016年6月 Part8 青田潤一
2016年5月 Part7 田中たつろう
2016年4月 Part6 オクダサトシ
2016年3月 Part5 ぎたろー
2016年1月 Part4 山本光二郎
2015年12月 Part3 古賀 剛
2015年11月 Part2 鎌倉道彦
2015年10月 Part1 平原慎太郎

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――海外ツアーから帰国された途端、入院されたという、大変な時にインタビューにご対応いただきありがとうございます。

田中 (腕に点滴をつけ、それを吊ったスタンドと一緒の状態で)こちらこそ、病院まで来ていただいてすみません。

――確かに、病院での取材は初めてです。それにしても、田中さんの経歴は非常に振り幅が広く、興味深いものですね。

田中 そんな大したものではなく、流れのままに来たというか……そもそも地元・宮崎では小学校受験に始まり、正規の授業の前と後に、受験対策としての別枠授業があるなど、かなり進学を意識した環境で小・中・高校時代を過ごして来たんです。やらなければならないことが多過ぎるほどあるなかで、楽しかったのがスポーツをすること。それ以上の欲がないのは、子どもの頃から今まで、あまり変わっていないかも知れません。
 それでも結果浪人してしまい、福岡で一年浪人しました。大学ではラグビーがやりたくて、入りやすそうな学部を探しつつ受験したのですが、結果すべり止め的に受けた日本大学農獣医学部畜産学科に入学しました。

――そこでローラーホッケーに出会うわけですね。

田中 はい、浪人時代に15㎏体重が落ちてしまい、ラグビーどころかバレーやバスケも、大学以前からやっている人たちにはとてもついていけそうにない、と思ったんです。でもローラーホッケーは、みんなが「大学から始めました」な感じで、楽しくやれそうだな、と。
 3、4年生の研究室選びでも、動物園実習などがあるとキツいじゃないですか。だから「卒論は動物が絡めばOK」という先生につきました。同級生が「ケニアの野生動物保護について」を研究すると言い、先生が現地でリサーチを勧めてくれて、一緒に1ヶ月ケニアに行ったりもしました。入学時には全く想像できなかった体験を大学でできたのは良かったです。

オクダ――卒業後はローラーホッケーの活動をされていたのですか?

田中 ローラーホッケーは当時「五輪種目になれるような、なれないような」な状況で、とりあえず武田薬品の子会社に勤めました。でも実習で行ったケニアが気に入り、また1年くらい行こうかと思っていたんです。親にそのことを話したら「帰国後どうするのか」と訊かれ、大義名分として「教師になる」と。そうしたら「教員免許を取ってから行け」となり、1年で会社を辞め、新宿歌舞伎町にある宮崎の郷土料理店でバイトしながら受験勉強をし直し始めました。
 私、元々文系志望だったんですよね、農学部しか受からないので行っちゃいましたけど(笑)。お金もないし、バイト先から一番近い夜学を一校だけ受けようと探して、結果早稲田大学第二文学部に再入学することになります。演劇にはちょっと興味があったんですよ。中学の部活の先輩に堺雅人さんがいたこともあって。

――……あまりの展開に言葉がすぐに出ませんでした。

田中 だから「流されてきた」、という感じなんです。入学後、2週間集中のアートマネジメント、劇場人養成のための授業があり、表方も裏方もやる内容に引かれて受講しました。そこで「演劇は訛りが抜けていなくて迷惑をかけそう。でも身体を動かすだけなら」と選んだダンスの授業に、助手として現れたのが石渕(聡)さんです。「日本にはコンドルズというダンスカンパニーがあり、それを観なければコンテンポラリーダンスは何も語れない」と石渕さんに言われ、観に行ったのが2000年の『ハートに火をつけて』です。

――踊ることにも魅力を感じたのですか?

田中 えぇ、当時26歳になっていましたが、スポーツとは違う身体の動かし方が「自分には一番縁遠いもの」に思えて新鮮で。で、「もうちょっと、やってみたい」と、ダンスに関する唯一の知り合いである石渕さんに相談したら、その場で僕の携帯電話を使って(近藤)良平さんに電話をかけ、セッションハウスの授業に予約を入れてくれたんです。
 他にも早稲田に教えに来ていた伊藤キムさんのワークショップに出て、そのご縁でキムさんのカンパニー輝く未来の作品に出たりなどしつつ、早稲田では社会・公民と日本女子大の通信で家庭科の教員免許を取りました。受験科目ではなく、職員室以外に自分の部屋があるといいなぁと(笑)。でも通信が厳しくて取りきれなかったんです。で、当時住んでいた神楽坂から比較的に近い学芸大学の大学院で4年かかって残りを履修しました。まぁ教員免許は、東京に残る大義名分でしたね。ダンスで食べていけるとも思えませんでしたし。

――何かを「決断」することはなくても、やり始めたことはまっとうする。田中さん独自の行動原理に思えます。

田中 何事も途中でやめよう、とは思わないんですよ。田舎者のわりに、周りと違うことに抵抗がないのかも知れません(笑)。あと、私小さい頃に養子に出されていて。長男だった祖父が、一人娘の私の母を嫁に出したため「跡取りがいないのはご先祖様に申し訳ない」と、4歳で同居していた母方の祖父母の戸籍に移されたんですよ。突然、石橋から田中になったという(笑)。それも“人は人、自分は自分”という発想、やりたいことが特に無くても気にしない自分に繋がっている気がします。

――なるほど。コンドルズに具体的に参加した経緯はどういうものですか?

田中 大学卒業後は高校の講師をしながら、今はなき新宿の小劇場シアター・トップスでもバイトしたりしていて。そこで、コンドルズの舞台監督・筒井昭善さんにも出会っています。舞台の裏方をあれこれするうち、コンドルズの公演を地元に近い福岡で観てみようと思い立ったんです。結構、福岡スタートのツアーがあり、行ってみたらできていないことだらけ(笑)。浪人時代知った地の利もあり、「あれ買ってきて、これ塗って」と遊びに行ったのに手伝うことになり、以降「手伝わないと終わらないかも」と思ってしまって。何度か福岡に手伝いに行くうち、それ以外の場所でも物販や仕込を手伝うようになっていったんです。これも……なんとなく、ですね。
 そのうち(山本)光二郎さんに「来春(08年)ブラジルに3週間とか行ける? スタッフじゃなくてキャストなんだけど」と言われ。講師の授業はなんとでもなるし、ブラジルに行けるなら、と。そういえば良平さんから「コンドルズに」と、僕は言われたことないですね(笑)。 

――もちろん、近藤さんの了承のうえでのお誘いでしょうけれど、でもすごい抜擢ですね。

田中 お馴染みにはなってましたし、きっと、古賀(剛)さんとか長期休暇が無理な人が多かったんじゃないでしょうか(笑)。
 さいたま芸術劇場の『大いなる幻影』(08年)が国内初出演でしたが、何故かチラシの名前が平仮名になっていて、以来そのまま。まぁ途中で苗字が変わっているので、いいかなと自分でも思いましたけど、それが気になるような人はきっと、コンドルズにいられないんでしょうね(笑)。コンドルズにいるならば振り回されるくらいが楽しいし、意外性を楽しまないと。

――その後、実家である宮崎県の飲食店を継いで、尚コンドルズを続ける決意をしたのは何故ですか?

田中 今やっている「えぷろん亭」は家業ではなく、子育てを終えた母が趣味で始めた民宿兼食事処なんです。「私が帰らなければ閉める」と言われ、自営なら融通も利くし「東京に部屋を駆り続けるのもなぁ。教師も正規採用になるとキビしいし」など色々考えた末、遠距離通勤を選びました。不思議とコンドルズをやめることは、全く考えなかった。

――最初に話された、「趣味でスポーツをやる」という発想に近いのでしょうか?

田中 スポーツは別にラグビーをやっていますし……なんというか“コンドルズという人間関係”が、私には格別に楽しいことなんですよ。ダンスが好きでたまらないというよりは、コンドルズとして集まるためのツールがダンスと言えばいいのかな。それが、メンバーになる前も今も変わらない感覚としてあるような気がします。私の場合、本番の舞台に出る・出ないより、みなでワイワイつくっている時間のほうが楽しかったりするんです。
 それに私は人を観察するのが好きなんですが、「何故この人はこんなことを?」という、思いがけないことをする人がコンドルズには揃っていますし。ワクワクすることに事欠かない。それがコンドルズの、にとっての最大の魅力ですね。

――結果、20周年という節目にも立ち会うことになったのですね。

田中 何気に9年いるので、コンドルズの歴史の半分近くは共有しているんですよね。でも、あまり特別な感慨はないんです。最初は客として観に来ていたのが、「自分が働くことで他の人が場当たりなど出来て、作品のクオリティが上がればいいな」と思って手伝い始めた。そういうファン的要素は今も残っていますし、スポーツでもサッカーのストライカー、野球のピッチャーみたいなところだけでなく、地味な、でも欠かせないポジションがあって、僕はどちらかといえば後者の立ち位置でやってきたんですよね。それで結果オーライなら、チームのどこに自分がいても良い。コンドルズにおいてもそれは変わらないし、20周年もただの区切り。これからもずっと同じだと思います。
 この先何年つき合っても、飽きるような人はコンドルズにはいませんから。今の光二郎さんに10年後の自分を重ねてみるとか、橋爪(利博)さんの意外なほどしっかりした将来設計に感心するとか、自分の今後の参考になるようなメンバーも多いですしね(笑)。

 

TEXT by SORA ONOE